崔実「ジニのパズル」

 第59回群像新人賞を受賞した作品です。今月号の雑誌『群像』の広告を新聞で見てほとんど条件反射のように購入して読んでみようと思ったのは、たまたまそのとき『「在日」の精神史』という尹健次の著作を読んでいたせいで「彼女が立ち向かうべき相手は何だったのかー」というキャッチコピーにまんまとひっかかかったからなのですが、あるいは作品の主人公のジニという名にこころひかれたという面もあったかもしれません。

 私が、ジニという名から連想したのは、朝鮮の歴史に名高いファンジニ(黄真伊)でした。儒教倫理によって階層化された朝鮮王朝時代の身分社会を官妓として生きた女性です。優れた知性と抜群の教養と両班をも顔色なからしめるほどの文学的才を持って圧倒的な存在感を示しながら、やはり女性として社会的抑圧の宿命を免れなかったファンジニを、私はこの小説の主人公から連想したのでした。

 もちろん「ジニのパズル」は、現代の日本社会を生きる在日の少女の物語であって、私の連想したファンジニとは縁もゆかりもない作品です。けれど、抑圧に対して抗わずにはいられないジニには、強固な身分社会に「美しい棘」のように突き刺さったファンジニの姿がおのずとオーバーラップして感じられると言ってもあながち的外れな感想にはならないと思います。

 ジニが抗わずにはいられなかったものとは、もちろん日本社会における差別の構造です。違和と排除の視線の交錯するなかに生い立った彼女が、しかし入学した朝鮮学校でも自分の居場所らしきものを見出だせないのは民族的主体性の獲得という切実な課題を共和国への支持、さらには金家の権力への忠誠心へと矮小化してしまうもう一つの抑圧力への反発からでしょうか。

テポドンが発射され、在日への視線がこの上なく険悪化するなか、彼女は制服のチマチョゴリを来て学校へ向かいます。通学の車中の描写が読んでいて息苦しくなるほどに見事です。そして警察を名乗る男からうけた暴力を描き出す場面は、レイシズムミソジニーが一体化した差別の本質を痛々しいまでに顕在化させています。

彼女が、在日「同胞」への攻撃を尖鋭化させている金家の権力への反発を募らせていくのは、ひょっとしたら朝鮮学校と学友たちが彼女にとってかけがえのない愛の対象となっていたからかもしれません。彼女は教室にあってはならないものとして金親子の肖像画を壁から外し、教室の外に投げ捨てます。その結果、精神病院に送られ・・・

この小説の魅力の一つはジニがチマョゴリについて語る言葉の美しさです。少しだけ引用します。

ニナは、朝鮮伝統芸能の一つである朝鮮舞踊を練習する舞踊部に属していた。幼い頃から習ってきたらしく、身に染み付いた舞踊部らしい繊細な手つきで、丁寧にチマ・チョゴリの青く長い紐をくるりと巻くと、左胸あたりで片結びをした。足首が見える程度の長くて、細かいひだが幾つも付いた夏用チョゴリは、まるで踊るように優雅に揺れていた。
ニナは、髪をかき上げて、綺麗なお団子を作ると、黒いゴムでしっかり結んだ。舞踊の振り付けでもするように、両手でそっと襟を整え、袖を優しく撫でるようにして、しわを伸ばした。そして、スカートのひだを一枚一枚確認するように手入れすると、ようやく顔を上げて、満足そうに微笑んだ。
美しかった。私は、突然泣きたくなった。

この小説について語るにはもう一つ、言語の問題が残っています。在日の生きる、日本語と「ウリマル우리 말」 が断層を成して交わる生活言語の地平という主題です。

しかしこれはまた改めて書いてみたいと思います。